起源
設立初期の頃から、シュライナーは全国各地での慈善活動で広く知られていました。
フロリダ州ジャクソンビルで黄熱病が流行した際、新設されたモロッコ・シュライナーとフリーメイソンのテンプル騎士団のメンバーは、病人を助けるために長い時間にわたって貢献的な活動をしました。1889年、シュライナーはペンシルベニア州ジョンズタウンの洪水被災者の支援をしました。実際に1898年までには5万人のシュライナーの会員がおり、79のテンプルのうち71のテンプルが何らかの慈善事業に従事していました。
1900年代初頭までに、友愛活動は急速に成長しました。そしてその中での友情が深まるにつれ、公式な慈善団体を設立するための支援も増えました。ほとんどのテンプルは地元の慈善団体を持っており、都度シュライナーの組織は援助を提供しました。1906年のサンフランシスコ地震の後、シュライナーは倒壊した街を支援するため25,000ドルを送りました。また、シュライナーはヨーロッパの戦争犠牲者の救済のために1万ドルを寄付しました。しかし、これらの貢献も個々のテンプルの慈善プロジェクト、またその会員を満足させるためにはまだ十分ではありませんでした。
子供のための病院を設立するというアイデアは、1919年にフリーランド・ケンドリック(Freeland Kendrick, P.I.P.、ルールー・シュライナー、フィラデルフィア)が、アトランタにある障害児のためのスコティッシュライト病院を訪問した後に考えられました。その訪問の際、ケンドリックは整形外科的障害を持つ子供を治療するための絶対的な必要性を認識しました。
ケンドリックは1919年から1920年のインペリアル・ポンテンテートとしての彼の任期中に146のシュライナーのテンプルの大部分を訪問し、そのアイデアを確立させるため公式な慈善事業のために活動し、15万マイル(24万キロメートル)以上を移動しました。
歴史的な決断
ケンドリックは1919 年から1920年のインペリアル・ポンテンテートとしての彼の在任期間の間に、アメリカ合衆国のすべてのシュライナーのテンプルを訪問しました。オレゴン州ポートランドで1920年に開催されたインペリアル・セッションにおいて、彼はシュライナーが子供のための病院を建設することを提案しました。
保守的なシュライナーには、それぞれの会員からの年間2ドルの募金と、この種の責任を引き受けることの意味について疑問を抱いている会員もいました。病院建設と言う計画の承認が薄れて行きそうになった時、会員であるフォレスト・アダール(Forrest Adair, ヤーブ・シュライナー、アトランタ)が次の話を始めました。
「私は昨日の朝ベッドで寝ていたところ、午前4時頃に何人かの貧しいバンドマンが窓の下に立ち、「I’m Forever Blowing Bubbles」(シュライナーのための歌)の曲を25分間演奏していました」
アダールはその朝遅く起きた時、再度そのバンドマン達について考えたと言いました。「バンドがシュライナーのための曲を演奏することは、それほど大きな意味がないのではないかと思いました。」
そしてそこに集まっていた会員を見てアダールは続けました。「私たちは自分たちの歌にお金を使い、それを演奏するバンドにお金を使っていましたが、今こそシュライナーは人類にお金を使う時が来ました。私はそれが始まるのを見てみたいと思います。目標達成のために技術的な障害はすべて取り除きましょう。そして最初の不自由な子供が助けられたのを見た後に、2ドルを支払ったことに反対するシュライナーがいるならば、私はその人に自分から返金します。」
アダールは猛烈な拍手の音と共に自席に戻りました。その瞬間、それまでの流れが変わりました。彼の後に他のスピーチがありましたが、歴史的な決定はすでになされていました。病院建設の承認は全会一致で可決されました。
そしてシュライナー病院の場所と人員を決定するための委員会が選ばれました。何ヶ月にもわたる研究、調査、そして議論の末、委員会は、ただ一つの病院だけがあるべきではなく、北米全体に病院のネットワークを作るべきであるとの結論を下しました。
この考えは、大きく大胆な方法で物事を行うことを好むシュライナーの心に響きました。アイオワ州デモインで1921年に開催されたインペリアル・セッションに委員会がこの提案を提出したときも、その方針は可決されました。
最初の病院
1922年6月、ルイジアナ州シュリーブポートで最初のShriners Hospitals for Children(現在Shriners Children's)の礎石が設置されました。その年、最初に入院した患者は、足の裏ではなく足の甲で歩くことを学んでいた内反足の小さな女の子でした。
シュライナーの素晴らしい先見性と献身、そして資金調達の努力の結果、これまでに全米の22のShriners Children'sおよびカナダとメキシコにおいて、およそ100万人の子供たちが治療を受けました。
詳細はShriners Children's Hawaiiのウェブサイトを参照してください。
類まれな影響力
Shriners Children'sが北米全土に広がるにつれ、この独特な組織の背景にある使命も拡大しました。子供たちの治療をするという、シュライナーの使命を遂行するためには、実際の治療だけでなくさらに二つの必要性があることが間もなく認識されました。その一つ目はより良い治療法を開発するための研究であり、二つ目はそのための医療の専門家を教育すると言うことです。その結果、子供だけでなく世界中のあらゆる年齢層の人々の医療にも影響を与えると言う副次的な使命が生まれました。
研究
Shriners Children'sは整形外科的症状、火傷、脊髄損傷、口唇裂口蓋裂を含む、あらゆる治療分野で臨床研究を行っています。これらの症状に対して進行中である臨床試験は、臨床試験を行う病院がそれらの様々な病状を持つ子供の大きな集団を有する唯一の施設であるため、そこではほとんどの治療をカバーする事ができます。多くの場合、これらの研究で学んだことはすぐに実際の現場に適用され、また他の医療機関と共有することができるため、治療方法は常に改善されています。
いわゆる「ベンチ」リサーチもこの組織の特徴です。実験室ベースでの研究は、遺伝学、栄養、代謝機能、創傷治癒およびその他多くの主要な発見につながっています。
とは言え、Shriners Children'sは火傷研究における対応力で最もよく認知されていると思われます。事実、今日世界中の火傷対応における標準的な治療法として活用されている方法の多くはShriners Children's内で生まれたものです。
教育
小児科の整形外科医療に関してはShriners Children'sが専門家です。米国内のほぼすべての小児整形外科専門医は、Shriners Children'sにてインターン教育を受けています。
私たちのそれぞれの病院は大手大学の医療センターや病院と密接な関係を持っており、会員の外科医や医師の多くはそれら施設の教授となっています。Shriners Children'sは看護師、理学療法士、言語療法士、作業療法士などの他の医療専門家のための訓練場でもあり、このような医療の教育にフォーカスすることは、そこで学んだ豊富な情報を長年にわたって伝播することを支援をしながらも、Shriners Children'sを医学の最前線に置いていくことにつながっています。